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「子どもの心身を蝕む社会環境 NO.2」 |
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- 身辺な環境や幼児教育の大切さ - |
こども心身医療研究所所長 冨田和巳 |
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前号の特集「子どもの心身を蝕む社会環境」について引き続き、こども心身医療研究所所長の冨田和巳先生に
身近な環境や幼児教育の面からまとめて頂きました。
はじめに |
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前号(本誌67号)の特集では、「今年は十二歳の少年による幼児殺害事件が…」というのが出だしの文章でした。今年も同じ長崎で「小学六年生女子による同級生の殺害」がありました。いずれも特異な事件ですが、この事件に限らず多くの場合、加害者は「普通の子ども」と初期に報道されます。報道は迅速性と子どもの場合には加害者とその親の人権を守ることが最優先(被害者側の人権は一切守られない矛盾にも気付く必要があります!)になるため、加害者像は不鮮明になり、ますます多くの者に不安を与え、実際のところをわからなくさせます。子育てに自信のない親が増加したこととあいまって「ひょっとするとうちの子も」と不安にさえさせるのです。
さらに、子どもの事件では、直接学校に責任が明らかにないような場合でも、すぐに学校や校長・担任に非難が集中し、記者は学校に詰め掛け、校長が記者会見を行い謝罪する図式が恒例になっていることも、混乱を深めていると私は思っています。今回のように学校内で殺人がなされ、同級生同士ということになれば、「学校に責任がある、教師が気付いていなかったのはけしからん」式の非難がマスコミや有識者の口から聞かれるのも、多少は仕方がありませんが、記者会見する校長の発言は適切だったのでしょうか?
「何を言っていいかわからない」「うかうかしたことは言えない」と狼狽した校長が、具体的なことも自分の考えも述べずに、最後に今流行りの言葉「心の教育」「命の尊さを教える」で終わりました。そこに残ったのは空しさと、それで満足する記者への失望でした。これまでもこの種の記者会見では、校長が教育の場にある本質的問題には一切触れず/触れられず、通り一遍の謝罪の言葉で常にすましてきました。何よりもこの種の事件では、学校教育以前にある「加害者本人の素因(気質)や家庭の在りようを含む家庭教育」に最大の問題があるのですが、それは一切触れられません。教育者として真に反省すべきは、前号で指摘したように、そのような家庭教育しかできない親を多く育てた「『義務や責任、秩序』を無くした『わがまま気まま』を『個性・自由・権利』と美辞麗句であおり『母国に誇りを持つことで芽生える自尊心』を育てなかった戦後教育」ではなかったのではないでしょうか?
さらに、今回の事件では「学校が尊厳性をもたなかった結果、殺人事件が学内で起こった点」(池田市・教育大付属小学校の事件も同じ)と、未成熟な小学生からパソコン教育を始めた、実の伴わない「新しいことはすべてよい」と錯覚した教育方針が加わっていたのではないのか、と私は考えるのです。
事件に限らず最近の報道のほとんどは、学校が成すべきことを成さなかったと非難するのでなく、明らかに責任外のことを非難し、事件の原因を不透明にするだけでなく学校悪化に拍車をかけているようにみえ、物事の本質をますます見えなくさせています。これでは予防などまったくできません。
前号で私は幼児教育にたずさわる方々に、子どもを取り囲む環境の基本を考えていただきました。今回は先ほどの「加害者の素因(気質)と家庭の問題」と指摘した、子ども本人の問題と心の育ち方を、やはり基本に戻って述べることにします。前号と今号で、子どもの出す種々の問題を「本人」と「環境」の両面から「最も大切になることは何か?」を考えていただけると思います。子どもの問題は発達障害や心身症から事件に至るまで、すべてを子どもの素因と心の芽生え方に環境(家庭・幼稚園や学校も含む)を加えて考えることで、ある程度の基本がみえてきます。
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