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母親たちの奮闘と医学の進歩 |
熊本大学小児科教授 遠藤文夫先生 |
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姪っ子が病気になったガスリー博士 |
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彼がこの研究を続けているうちに大変なことがわかりました。彼の妻の妹の子供が誕生したのですが、この女の子はガスリー博士の姪に当たるわけですが生後15カ月のときにフェニルケトン尿症と診断されたのです。この姪の名前はMargaret Dollといいます。妻のとその妹の落胆は大変大きいものでした。ガスリー博士も自分の研究が姪の診断に役に立たなかったことを大変悔やみました。このような個人的な家族の理由もあって、この日からガスリー博士は自分が開発した診断方法を早く普及させる活動を開始します。
ガスリー博士はすべての子どもが手遅れにならないうちに血液検査を受けてフェニルケトン尿症の診断を受けるべきであると考えました。かれが開発した方法はろ紙に血液をしみこませ、そのろ紙を検査センターに送り、検査センターでは一度に多くの赤ちゃんの試料を検査することができました。1961年の夏、かれは方々から血液試料集め、23名のフェニルケトン尿症患者を診断します。これで彼の方法が実際に応用可能であることがわかりました。このことがマスコミの注目を率いライフ誌にそのことが掲載され全米の母親の注目を集めます。1961年の秋に開かれた学会で彼は公衆衛生の専門家を説得します。折から米国では当時のケネディ大統領発達障害の子供のための発症予防の大プロジェクトを開始していました。このプロジェクトで資金を得て、米国の29の州から60名の技術者あつめ、彼らを教育し次の年から実際の検査を開始します。それから2年間で29の中で40万の赤ん坊のサンプルを検査し39名の患者を診断します。一人も検査から見逃された子どもはいませんでした。39名の患者は知的障害が現れる前に治療が開始されました。
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