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附)No.67/2003より
「子どもの心身を蝕む社会環境 NO.1」 |
こども心身医療研究所所長 冨田 和巳
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母性社会と父性社会 (2) |
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5.歴史
[1]マルクス史観による歴史学の誤り
戦後の歴史学会はマルクス主義による歴史観が席捲し、その影響は教育界に最も強く表れ、今も続いています。マルクスは英国の産業革命による悲惨な労働者階級と、それを搾取する資本家出現への批判を思想の出発点にしたのですが、それはきわめて人道的な論であり、多くの人々の共感を得ましたが、あくまでも自然征服・差別社会の英国の状況から出た論で、自然共存・平等社会のわが国には当てはまらない思想です。
特にマルクス史観は表に示したように歴史を捉えていますが、わが国の歴史に絶対に当てはまらないのです。
最初に東洋を遅れた地域と見る視点は西洋社会の独善です。さらに奴隷制度などまったく無かったわが国には第二段階も当てはまりません。10年余り前のベルリンの壁崩壊に始まり共産国はほぼ総崩れした今、最終段階も誤っていることが証明されています。つまりわが国の歴史にはどう考えても当てはまらない発展形式を無理に当てはめて歪めたのがわが国の学校で教える歴史なのです。こうして「江戸時代は暗黒・差別社会、明治維新は本当の革命でなく庶民を苦しめただけで、その後は近隣諸国に侵略した野蛮な日本」という、むしろ実際とは180度異なる、母国を無理やり蔑視・否定する歴史になってしまったのです。これは敗戦後の米国の占領政策にも大きく影響されたことはいうまでもないのですが、何よりもわが国の民族性によっています。
[2]わが国の近代までの歴史
ここでわが国の近代から現代を駆け足で、マルクス史観でなくみていきたいと思います。近代はユーラシア大陸のほぼ全体を初めて統一した蒙古民族の支配(元)が終焉した14世紀頃から、その西端の西洋(主にポルトガル・スペインから英国)と東の端の、さらに少し海を隔てた小さな島国・日本が勃興し始めます。西洋も日本も共にアジアの物産を求めて、貿易の盛んな時代に入り、西洋ではこれを大航海時代と言います。わが国も東南アジア各地と交易を始めました。その後、自然征服思想の西洋は膨張主義・覇権主義で、ユーラシア、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアと地球上全大陸の有色人種の国々を彼らの尺度で未開地と解釈して征服・略奪していきます。これに対してわが国は一般に鎖国と呼ばれる、内にこもる平和主義(徳治主義)で自給自足の、今流行りの言葉で言えば、まさにエコロジーそのもので国を独自に栄えさせていくのです。もちろんこれは徳川家の「お家安泰」の面も強いのですが、自然共存思考の発露と世界情勢をそれなりに為政者が見つめた結果とみてよいでしょう。
いずれにせよ、日本と西洋は共に高度な文明を発達させていくのですが、西洋の産業革命に対して日本の勤勉革命、未開地開拓という自然征服に対して自然共存という根本的な違いがあります。
母性社会のわが国の世界で例を見ない平和志向/思考は、徳川時代の鉄砲の歴史にみることができます。鉄砲は1543年ポルトガル人が種子島に持ち込んだことは有名ですが、翌年には国産品が作られ、10年余りすると世界一の鉄砲生産国になり輸出まで行います。織田信長は武田の軍勢を騎馬と鉄砲を巧みに使った世界戦史上初めての連発方式を考案して勝利を得て(長篠の戦い)、その後、関が原の戦いをもって、徳川家康が天下を統一して戦国時代を終わらせると、古今東西世界史上どこの国も行なったことのない自前の「軍縮」を行い、武士が携帯するのは鉄砲でなく刀にしたのです。古い旧式の武器に戻るのは世界の歴史上、江戸時代だけなのです。これがわが国で可能であった地勢に注目することが最初に述べた自然風土が大切だという考えです。日本人は基本的に平和愛好で、学校で教える「野蛮で戦争好き」の国民性では絶対にないのです。
当時植民地経営で豊かになった西洋に比べると全体には貧しくても、庶民は心豊かで自由に生活し、知的水準も高く、女性の地位の高さも含め、現在の学校教育で教える暗黒・搾取・不自由な江戸時代とは正反対の現実があったのです。
1546年に日本にやってきたイエズス教会のフランシスコ・ザビエルが、庶民の識字率の高さ(当時、西洋では庶民はほとんど字が読めなかった)に驚いたのも、元禄文化をはじめとする「庶民文化の栄え」も、他の国々の多くにある権力者による文化との根本的な違いがあります。これは母性社会の特徴である「平等」思想の表れです。当時の社会状況を冷静にみていけば、士農工商と呼ばれる封建時代ではありましたが、西洋や他の国々の封建制度とはかなり異なり、身分差別もそれほど強くなかったのです。江戸時代の素晴らしさは、主に江戸時代末期から明治維新直後にわが国を訪れた欧米人の旅行記や滞在記(シーボルトやシェリーマンなど)で客観的に明らかにされています。
このように世界史上例のない270年間の平和な時代も世界情勢から続かなくなり、征服・侵略主義の欧米と、慎ましく自然と共存していたわが国との出会いが19世紀末にあり、明治維新が成し遂げられることになります。この素晴らしい革命は当然のごとくマルクス史観からは、それより約100年前に遡るフランス革命と比べ、「民衆からのものでない」と貶められるのが学校で教えている歴史なのです。しかし、フランス革命は独裁者ナポレオンを生み、徴兵制を作り、ヨーロッパの広範囲に大規模な戦争を起こさせ、フランスでは実に人口の1割が死亡する史上最悪の状況を出現させるなど、大衆の熱狂による統制の無い革命で、無秩序と混乱を引き起こした事実を見落としてはならないのです。
これに対して明治維新では、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、その10年後の西南戦争も含めて、兵士の死者も極めて少数で、何よりも一般大衆がほとんど内戦に巻き込まれなかったのです。この「史上稀有な平和的革命(これも母性社会の特徴!)」を、常に平和を唱える教師集団が「なぜ、悪く教えるのか?」という素朴な疑問がわいてきますが、彼らは平和・民主的教育と唱えながら、実はマルクス主義によるイデオロギー一色の教育を行なっているだけなのです。
[3]わが国の近現代史−欧米人のまねによる成功と挫折の歴史−
明治維新の成功に続き、自然征服の欧米型国家に劇的な変身を遂げたわが国は、日清戦争から第二次世界大戦の敗戦まで、ほぼ50年間「自然征服の西洋人の真似をして」対外戦争の時代に突入します。この50年の始まりを欧米側から評価すれば、「1856年(日米修好通商条約)から19世紀の終わりまで、日本は半植民地状態であった。この期間ほぼ45年にわたって、日本は欧米列強の直接『指導』のもとで『改革され、再教育された』のだ。日清戦争の後、欧米はこの生徒の卒業を認定し、1899年に不平等条約の最後の項が書き改められ、日本は高校卒業証書をいただいて、大人の仲間入りをした。そして、日露戦争で日本は大学卒業論文を見事に書き終える。第一次世界大戦後のパリ会議でインターン(以前に医師は卒業後1年間の研修を大病院の各科を廻って実習をした制度。戦後から昭和42年まで続いた)を無事終えたことを欧米は認めた。日本の本当の罪は西洋文明の教えを守らなかったことでなく、よく守ったことなのだ」とヘレン・ミアーズが、第二次世界大戦終了直後「アメリカの鏡・日本」(メディアファクトリー)で述べています。わが国は西洋文明を学ぶ優等生だったと彼女は断言したのです。実は彼女のこの的確な発言は、東京裁判(第二次世界大戦後に連合国がわが国を勝者として裁いた裁判形式の復讐劇)でわが国は西洋文明の破壊者と断罪されていたときなのです。このため同書はマッカーサーによって日本では発禁にされ、彼女は本国でも学者生命を絶たれてしまいます。この事実からみても米国はわが国に本当の「言論の自由」や民主主義を与えたわけではないことがわかります。与えたように「見せかけ」、母性社会のお人よし・日本人がだまされただけなのです。
日露戦争のときに、岡倉天心は「西欧人は日本が平和で穏やかな技芸に耽っていたとき(江戸時代)、野蛮国とみなしてゐたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯し始めて以来、文明国と呼んでいる」と適切に述べたように、西洋の規範からみれば「わが国の本当に平和に過ごした時代は『野蛮国』で、西洋人の真似をして対外戦争をしていると『文明国』になる、帝国主義時代の価値観を理解しなければなりません。もちろん、この父性社会のまねは母性社会のわが国に合わないものであったのです。私はこの二人の意見ほど、当時のわが国と西洋を適切に表現したものはないと考えています。
そしてこの優等生は欧米人から誉められ有頂天になり、昭和に入ると世界を支配するアングロ・サクソンの父性社会の冷徹さ・厳しさ・狡猾さを忘れ、まさに「三代目、唐草模様で貸間あり」の諺通りに、祖父・親世代の血のにじむ努力の結果で得た遺産を食いつぶし、母性丸出しの「島国根性」で日中泥沼の戦いから第二次世界大戦の敗北に突き進んだのです。
ここで、わが国の戦争時代(日清戦争の始まりから第二次世界大戦の敗戦までの50年間)を、マルクス史観でなく公正にみる作業を行なうためには、人類のもつ「人種差別」についてにも、目を向ける必要があります。肌の色による人種差別はアリストテレスの時代から現代まで世界を覆ってきたのは歴然たる事実です。これを世界で初めて「人種差別を無くそう」と訴えたのは国際連盟設立の基になったパリ平和会議でのわが国であった事実など、わが国の歴史ではほとんど無視しています(マルクス史観ではわが国の善い面は絶対に認めず、歴史を歪めてでもわが国を悪く言うのです)。このわが国の画期的な提案は多数決により議決されそうになったとき、黒人問題を国内にもつ米国・ウイルソン大統領の卑劣な手段や、内心では日本(有色人種)の活躍に苦々しく思っていた西洋白人諸国によって否決されたのです。民主主義を標榜する米国の二重規範はあらゆる歴史の場や現在の国際関係でも出現しており、これが現在も続く白人(アングロサクソン)中心世界の厳しい現実であり、感情的にならず冷静にみて対応していくことが、国際化の時代に最も求められることです。
この民族差別が公然と闊歩していた時代に、白人から見た劣等民族であるわが国は、世界で唯一白人に闘いを3度も挑み、1回目(日露戦争)は奇跡的な勝利を得、2回目(第一次世界大戦)は漁夫の利を占めたのですが、3回目は負けたので仮借なき制裁を白人から受けることになったのです。しかも彼らの父性的巧みな政策を母性的民族は適切に認識せず、独立(昭和27年)後も現在に至るまで、その呪縛から抜けきれていないのです。なお敗戦直前、旧ソ連による国際法違反の侵略・略奪・殺戮も、世界に名高いロシアの条約違反体質と日露戦争の報復という面があった事実も、世界の厳しさを知らない「母性社会の住人」は、ほとんど認識していません。第二次世界大戦で敗色濃厚となったときに、ソ連に和平の仲介を頼むおろかさは、いかに国際社会の現実を冷静にみていなかったかを表しています。このようなことが重なって、60万人の兵士がシベリアの極寒地で国際法違反の重労働を課せられ、膨大な死者を出し、無辜の満州移住者も虐殺・暴行など地獄の苦しみを味わうことになったのです。歴史はいたずらに「近隣諸国に迷惑をかけた」と現代の価値観で情緒的・道徳的に謝罪することでなく、厳しく冷静に、自らの民族性を洞察しながらみることが、現代の私たちに示唆を与えてくれるのです。ビスマルクは「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」と言っていますが、現代の多くの日本人はそれ以前で、歴史をどのようにみるかさえ判っていないのです。
[4]わが国の戦後
敗戦時「日本の古いものは制度や思想/歴史などすべて悪しきもの」と一方的に米国は断罪し、戦争中の軍以上の言論統制(これが行なわれたこともほとんどの国民は忘れ/知らない)の中で占領政策を実施し、憲法までつくったのです(いずれも国際法違反)。しかし酒が悪いと禁酒法を自国で作るような“純粋・単純な正義”を建前にする米国は、彼らの理想「恒久平和と欧米流の民主主義」をこれに被せました。
この結果、戦争に疲れ敗戦に虚脱した国民が米国の本音に気づかず、「理想」だけを奉り、同じ戦勝国・旧ソ連の共産主義にも幻惑されることになったのです。インテリ層が共産主義に共鳴したのは、わが国だけでなく世界的傾向であったことは「理想・建前に弱い」インテリの性で、わが国は急速に母国蔑視・マルクス史観一色の歴史観が教育の場で広がり、先に述べた状況を呈することになったのです。昭和27年に独立し、平成1年にベルリンの壁が崩壊したことから共産主義の国々がほとんど崩壊した後も、マルクス史観と米国の占領政策の方針に束縛された結果、そのつけが未来を担う子どもに重くのしかかっているのは、わが国の内外の現状をみれば自明になります。
このような基本を押さえた後に、わが国の現状や子どもの問題をみて、本質的なことに目を向けていかねばなりません。
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