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附)No.67/2003より
「子どもの心身を蝕む社会環境 NO.1」
こども心身医療研究所所長 冨田 和巳



教育


 人間は「家庭・学校教育」を受けて社会の一員になります。家庭教育の大切さは既に母性・父性のところで詳しく述べましたので、これからその後に来る学校教育について述べていきます。私は「国を滅ぼすのに武器は要らない。教育をダメにすれば国は50年で滅びる」という名言を忘れることができません。国や国を構成する人間の基盤は学校教育にあることを強く認識させてくれる言葉です。
(1)義務教育(公教育)の本質
 学校は知的教育を国家が最も効率よく行うために創設されたという点で、必然的に欠点をもっていますが、世界中で集団教育が行なわれているのは、長所の方が多いからです。そして、これに成功した国が発展してきたのです。最近ではこの欠点をことさら強調し「『集団的効率主義』に入れない/適さない者」が落ちこぼれていくことから学校を否定する勢力が大きくなっています。もちろん、集団教育に向かない者に可能な限り個別の対応を試みるべきですが、これに目を奪われ過ぎると、学校がもつ本来の機能は著しく損なわれていきます。欠点を改善する努力は大切ですが、何が大切で本質的問題なのかを考えなければなりません。自明である欠点をことさら指摘する姿勢は革新的ですが、何一つ現実的でなく、生産性の無さで混乱を招くだけ、かえって現状悪化を促しています。
 常に言われる選択の余地の無い一斉授業で、画一的な知識を与えるとする学校教育非難は、もっともらしく聴こえます。しかし、大切なことは人間の頭脳がいかに優秀でも、基盤になる知識がなくては、創造性も独創性も生まれないのですから、いたずらに創造性・独創性と美辞麗句を並べることより、確かな知識とそれから芽生える知恵を義務教育では育てることを重視しなければならないのです。それを基盤にして高等・大学教育で実のある創造性・独創性が出てくるのです。  
(2)学校ほど大切な所はない
 同じように学校の表面的現象(校則・管理・体罰・生徒の人権を認めない、内申書、受験勉強中心)を非難することも「角を矯めて牛を殺す」ことになります。それは地域社会や大家族の消失、プライバシー尊重の家屋構造などの出現で、日本人の持つ対人関係のまずさが更に増強されていくことです。子どもは家庭や地域で多くの人々と接する環境がほとんど無くなり、その上、個人で楽しむテレビゲーム・ビデオ・インターネットなどが与えられたのです。最近の若者が「生身の対人関係」を伴わない「メールの交換」「プリクラで交友関係を確認」「携帯電話に何人登録しているか」をことのほか重視するのもこの弊害の表れでしょう。
 このような時代だからこそ集団教育の場の、特に子どもが最初に出会う幼稚園(保育所)や小学校の有用性と重要性が出てくるのです。実際、 今や子どもが集団内で自己表現や対人関係を学ぶ場は幼稚園と学校しか残されていないといっても過言でないでしょう。学校では様々な個性や生活背景の異なった子どもたちが、毎日かなりの時間を集団で過ごしています。本来は教科の学習をする場ですが、より大切なことは先生や級友と共に過ごす遊び時間や課外授業・行事を通じての自己表現や対人関係の学習なのです。
 私は次に述べる学校教育の根本的問題は早急に大胆に勇気をもって改めなくてはならないと思う一方で、例えいかに欠点をもつ学校でも、「現代の子どもにとって学校ほど大切な場はない」と考えなければならないと思っています。それは子どもに社会性(表現と対人関係)を学ばせる場が学校にしか残されていないからです。私の学校批判は実にこの「何ものにも代え難い善さをもつ学校」がもっとよくなって欲しいと思うことに発しています。
(3)戦後教育の罪
 私は学校ほど大切な所はなく、的外れの非難は百害あって一利なしと考えています。しかし、学校のもつ致命的欠点を指摘せず改めないことは、更に子どもとわが国の不幸を生むと考えていますので、表5表5のように4点に絞って、その問題を述べて拙稿を終りたいと思います。
 1.既にこれまで述べてきましたことですが、世界中で母国を悪く言う教育をしている国は日本以外に一国もないという単純な事実からでも、この教育の異常さが判ります。残念ながら半世紀以上もこのような教育を続けていると、このようなことも判らない者が政界にもマスコミにも多くなったのです。昨年、少しでも母国のことを肯定する歴史教科書が出されると、一流と言われている新聞から教師集団、過激派までが採択させないように画策や妨害をしました。このような不健全な国は、国益を損ね子どもの未来を暗くして、更に続々と自尊心の無い人間を増やしていきます。
 2.「教師の労働者」宣言も大きな罪でしょう。教育は知的に0の者が「教え・育てられる」のが基本である以上、優れた人から受けなければならないし、受けたいと希望するはずです。昔から「先生」と尊称で呼ばれる職業は、「偉くあって欲しい」という受け手の願望を表しているのです。これを教師側が偏ったイデオロギーから一方的に否定し、教育に最も相応しくない階級闘争を学校に導入した以上、望ましい教育など行なわれなくなるのは当然です。誰もがそれほど偉くはないのですが、少なくとも「先生」と呼ばれる職業の者は「偉くなる努力」を常にして、自己実現を図らなければなりません。残念ながら現在の教師の一部は「偉くなる努力より『男女混合名簿』を作れば平等になる、更に『女男名簿』と呼べば更によい」と本気で提言するような思考集団(日教組)に多くが所属し、それが最も力強い勢力になって教育の崩壊を招いているのです。教壇が無くなり卒業式にも「仰げば尊し」を唄わせないのも、すべて「偉いことを否定した教師の試み」が定着した証拠なのです。現代では学校や教師を尊敬する親子が極端に少なくなったのは、教師の思惑通りの人間が育っただけと考えればよいのです。学級崩壊で教師が「家庭教育のできていない子ども」と批判する前に、自分たちの教育方針通りの社会(学校)になったと喜ばなければいけないと、皮肉の一つも言いたくなります。
 3.「欧米の民主主義を金科玉条のごとく奉って学校に導入」した罪も大きいと言わねばなりません。民主主義は専制・独裁主義に対する単なる政治形態の一つであり、よりよい制度ではありますが、決して理想的なものでありません。この本質をみないでわが国の戦後“民主的”教育は「個性(個人)・自由・権利」だけが素晴らしく「責任・義務・秩序」など思いも至らない「わがまま気まま」で「恥の知らない」人間を大量生産したのです。また、種々の点で個人の能力差を認めない「結果平等」が“優しい”教育という偽善をはびこらせ、かえって子どもを苦しめるだけでなく、物事の本質を見る目を無くさせ、他者を正当に評価できない思考を育て、人間関係を損なわせました。「きれいなもの、優れているもの」を子どもが認め賞賛し、純粋に憧れる気持を無くさせたのです。芸術を愛で、能力差をお互いに認め補いあい、優れた者を目指して努力するような豊かな人間関係を否定して、「弱者に優しく」「差別をなくそう」と叫んでも、その言葉は虚しく響くだけであり、本当に気持の優しい人間が育っていないのは、最近の世相をみればあらゆる場で証明されています。   
 4.教育とは子どもに真実をみる目を養うことにあります。真実は単純なものでないのにも関わらず、戦後教育はイデオロギーによる「真実は一つ」という単純思考で行なわれてきました。この世に絶対的に正しいことは無いことを無視した/気づかない硬直した教育で思考力のある者は育ちません。「国歌を歌えば/国旗を揚げれば戦争賛美」「広島に連れて行けば平和教育ができる」など、現実を多角的にみないイデオロギー教育が、現実世界を厳しくみることのできない政治家を多数輩出させたのです。
 以上の4点が今も公立学校の基本的教育方針になっており、ますます国を滅ぼす方向に向かっています。ですからこの4点を改めない限り、先の「50年で国は滅びる」が不幸にも的中してきているのです。平成7(‘95)年の「戦後50年」と騒がれた年に戦後教育はまさに50年を経過し、その年の初頭から阪神大震災、オーム・サリン事件が出現し、その後は厚生省(当時)の薬害エイズ事件など毎年のように、これまで日本では考えられなかったような事件・不祥事などが各分野で噴出しています。「政治は二流でも経済は一流」と言われ続けてきた「経済大国・日本」も過去のものになり、何よりも近隣の軍国主義の国々からの脅威にも何一つ適切な対応ができない国に成り果てています。誤った歴史観でひたすら謝罪を繰り返し、国際社会で本当に信頼も重視もされない存在になって久しくなります。まさにこの名言が当てはまる状態以外の何ものでもありません。このような国で子どもは育っていくとすれば、明るい未来など何一つないのです。




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