妊産婦と乳児の精神保健と地域での育児支援
九州大学病院子どものこころの診療部 特任教授 吉田 敬子先生
疫学
妊娠や出産は、文化を超えて、大多数の女性とその家族にとって、祝福されるべきことだと考えられています。一方で、わが国で言う「産後の肥立ちが悪い」という表現が示すように、産後の女性には心身の変調が起こりやすいことも知られていました。この産後の精神障害の中でも特に産後うつ病については、1980年頃から、欧米、特に英国を中心に多くの知見が積み重ねられてきました。
産後うつ病の罹患率は10〜20%であり、産後はそれ以外の時期よりも高率にうつ病を発症します。発症のモデルを図に示します。背景要因としては、妊娠前からの精神疾患の既往や、パートナーや実母などからの実質的・情緒的サポートの不足、対人関係のゆがみ(アタッチメントスタイル)、経済、住居環境の問題などがあげられます。直接的誘因としては、妊娠出産そのものが、内分泌学的にも心理的にも大きな影響を女性の体に与え、これ自体がライフイベントとして、発症に直接的に関係する側面を持っています。また、その他のライフイベントとして、家族の死や重大な病気の発症、事故や災害などがあげられます。このように背景の脆弱因子と直接的誘因となるライフイベントが産後うつ病の発症に関連しています。
症状
産後うつ病では、その他の時期のうつ病と同様、気分の落ち込み、楽しみの喪失、食欲、睡眠、意欲などに障害がみられ、罪責感や希死念慮さえ抱くこともあります。さらに、産後の母親のうつ症状は「赤ちゃんの具合が悪い」「母乳の飲みが悪い」のように子どもへの心配事や、「赤ちゃんへの愛情が実感できない」「自分は母親としての資格がない」「赤ちゃんの世話が十分にできない」といった母親としての自責感や自己評価の低下などの訴えとなります。これらのお母さんの抑うつ症状は〝子どもの状態の訴え〟という表現となって、保健師や助産師、小児科医など子どもの担当者に、まず訴えられることも少なくありません。
経過・予後
産後うつ病の多くは軽症で、理解とケア、サポートによって良好な経過をたどります。精神科専門医による長期間の薬物療法や入院治療が必要になることは多くありません。しかし、既に述べたように、訴えの表現型が育児不安や母乳に関することであることが多く、背景にあるうつ病の存在に気づかれない場合は、日々の負担が軽減されないまま、症状が増悪、持続することもあります。
また、低出生体重児、先天奇形、発達障害、気難しい気質など、子ども側に養育のストレスを増やす要因がある場合もあります。さらに、母親自身の対人関係のパターンにおいて、家族や近しい人との信頼関係が薄く、育児サポートが得難い場合もあります。極度に苦しい経済事情、夫婦の不和などもうつ病の増悪因子となり、症状の慢性化や重症化を引き起こします。つまり、発症の脆弱因子として挙げられた項目は発症後も持続させる要因として関係します。うつ病発症リスクの高いお母さんに、できれば産前から早めに気づき、サポートをしていくことが大切です。
産後うつ病が母子関係と子どもの認知発達へ与える影響
妊娠・出産に関連して起こるお母さんの心身の問題は、お母さん個人の問題ではとどまりません。母親の家族での役割は大きく、特に乳児や年少児へ与える影響は大きいといえます。前述のように産後うつ病は治療可能で、多くは短期間で軽快します。そのような場合は母子関係に深い影響は及ぼしません。しかし一方で、赤ちゃんの生後早期に生じるお母さんのうつ症状は、母子の大切な出会いの時期に、赤ちゃんの行動や表情への自然な応答を難しくしてしまうという問題があります。これは、お母さんが赤ちゃんを気持ちのうえで受容できなくなる原因となることがあります。このような母子関係障害の方が、うつ症状そのものよりも、むしろその後の子どもの情動調整、衝動制御、認知発達に影響を及ぼすとの報告もあります。このことから、産後うつ病の発見と理解とサポートは、お母さんと子どもの双方に必要であることがわかります。