子どもとおやつについての皆様のお考えをお聞きしたいと思います。最初に、最長老の巷野先生から、ご発言ください。
巷野
私は古い人間ですので、昔のことがある程度理解されているということで、私の小児科の歴史を踏まえながら、また、間食というものが昔どうだったのだろうかというようなことを含めて、少しお話しさせていただきます。
大人と子どもを比較すると、子どもはからだが大きくなる進行形ですから、そこには常に食べ物があるわけですし、哺乳動物ですから、生まれるとすぐは乳だけでした。それからあとは大人の食事に移るために、離乳食、幼児食があります。これは昔も今も変わりませんけれども、その経過をみますと、昔はなかなか離乳食がうまくいかなかったとか、幼児期の食になっても偏食や食べるものが十分でないなどで、小児科の臨床で栄養失調や発育障害などは随分と経験しております。
そういう中で「間食」ということになりますと、そこには当然主食としての、1日何回かの昔からの食事という歴史がかかわってくるわけですので、今回、間食を考えるときに、昔はどうだったんだろうかということで、二、三、食事の歴史などを調べましたので、お話をさせていただきたいと思います。
私が調べた限りでは、江戸時代からさらに昔一般の庶民は、働く階層によって、既に三回食になっていたようで特に公家社会は二度食であったという歴史がありました。それから武士の食事は原則として朝夕二度食で、戦争が起きると、三度食が続くということで、そういったことが現在の日本人の三度食の基礎ではないかとあります。室町時代(1392〜1573)からその後、江戸時代(1600〜1867)には、既に三度食というのがかなりしっかりと根付いたようです。
しかしその中で貴族社会は、なお二度の食事とあって、その食事と食事の間に「間食」という言葉が初めて出てきて、それが平安時代の「延喜式」という本に書いてあるのが、初めではないかとあります。
「延喜式」というのは、宮中行事のときのいろいろな食べ物の儀式とか、そういったものを集めたもので、年中儀式、制度などを記したものです。その中に出ているのですから、いわゆる貴族階級の人たちが食の間に食べるということで、当時、外国から入ってきた、今で言えばお菓子類——砂糖を使ったもの、寒天等でつくったお菓子類が「間食」として載っているようです。恐らく平民は食べていなかったと思いますけれども、1日2回だけでは足りないところを、「楽しみの時」ということで間食があるというふうに書いてあります。「延喜式」の中にも〝楽しみ〟という言葉が出ていることが、本にも載っております。
江戸時代から明治時代は、皆さんご存じのように、食文化がどんどん盛んになりまして、明治の時代になりますと外国からも物が入ってきまして、1日3回の食事というものがしっかりしてくる。あるいは、保育所、幼稚園、学校という規則正しい生活をしている中にも、間食という言葉が出てきているということがものの本に書いてあります。
あとは、区切りとしますと、今から60年以上前の第二次大戦が終わってから後の食物の歴史にそれが移っていくということで、今回のこの「間食とは」というところに結びついてくるのかなというふうに思っております。