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小児科医50年を省みて

財団法人母子健康協会理事 東京大学名誉教授 鴨下重彦先生

学園紛争から新設医大へ

帰国して驚いたのが、インターン闘争に端を発した東大紛争です。帰国の数日後、混乱の責任を取って東大の大河内一男総長が辞任しました。全共闘と称する過激派の学生達により、研究室封鎖や人民裁判のような教授のつるし上げが行われていました。医学部が発端でしたが、すでに全学に拡がり、東大のシンボルと言われ大学本部のあった安田講堂も過激派に占拠され、大学として管理機能は完全に失われていました。そしてついに昭和44年1月18日、安田講堂解放のために、警視庁機動隊8千人が導入され、催涙弾や消防車による放水、さらにはヘリコプターを使って空からの散水などが行われましたが、1日では済まず、翌日機動隊員が強硬突入して、立てこもっていた20数人の学生らを逮捕してけりがつきました。

しかし、ひどい破壊活動の後の修復は容易ではなく、この年東大は入試を中止、その影響は全国に及んだと思います。講義、授業の再開も医学部では5月半ばになりました。当時教授をつるし上げる側にいた人たちも、要領のいい人間は後に教授になりましたが、あの紛争は一体何であったのか、今でも疑問に思っています。紛争による物的な損害もさることながら、人々の精神的荒廃は取り返しがつかないのではないか、と思いました。それによって日本の研究が国際的にもかなり遅れたのは間違いありません。

紛争は学会にも飛び火しました。小児科学会は、学会の在り方をめぐって紛糾し、砒素ミルクや未熟児網膜症、大腿四頭筋短縮症など医療上の問題の追及などもあって、学術集会が開けない状況が数年に及びました。

学園紛争も収まる頃、国は一県一医大政策を取ることになり、昭和45年の秋田大学を筆頭に、昭和56年の琉球大学まで、医学部、医科大学創設のラッシュが続き、国立、私立合わせて40校が新設され、全体で80大学と倍増されたのです。私は昭和49年栃木県に出来た自治医大へ小児科教授として赴任しました。最初は人出不足で大変でしたが、創造の喜びのようなものがあり、特に自治医大はへき地の医療を支える医師の育成が目的で、学生たちは皆純真で教え甲斐がありました。自治医大には11年いましたが、これから本番という時、紛争後の荒廃の続く母教室の再建のために東大小児科に戻ることになりました。その後のことは余りにも問題が多く、紙数のこともあり、また少なからず差支えもありますので、ここでは控えることに致します。

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